まわりのひとからみたら滑稽かもしれないけれど、ずーっとわたしは大袈裟な荷物をしょってきました。中学生のころには、文字通り、あの分厚い参考書をカバン一杯に詰めて『自由自在』(参考書のタイトル)なのに、重たく、走ることもできないような荷物を抱えることを好むようになっていました。高校でも、大学でも、参考書をたくさん買い込むクセは治らなくて、それがかっこいいものだと信じて疑わなかったのです。
わたしが大袈裟な荷物を持つようになったのは、そうしていれば、わたしの不備を補うことができると思っていたから。わたしは欠陥人間で、その穴を埋めるためにはいろんな道具が必要で、参考書もたくさんあったほうがいいに決まっている。他人からどういう風にみられようが、準備をしっかりしていて、その場で答えを探し出せるほうが賢く、優秀だと思ってもらえるに違いないと思っていたからです。でも、自分が一生懸命運んだ参考書の山は、自分よりも賢い人たちに「ちょっと見せて」とサッと利用されて終わりなんです。自分でも、そんなに読めるわけがないから、結局なんのために用意したのか、そんなに重たく痛い思いをしなければならなかったのか、となります。
不器用なわたしは、それでも、たくさんの荷物を持ち歩くことを選びました。その滑稽な姿は、スマートなひとたちからバカにされることもあったけど、それを突き抜けたとき、圧倒的ななにかを身につけることができたんです。大袈裟でもいいじゃない。まわりから滑稽だとか、どうかしてると思われてもいいじゃない。重たく痛い思いをする必要はないけれど、どこかで突き抜けてやるという意気込みはあってもいいよね。大袈裟なことをしたいのは、それだけの理由がどこかにあるに違いない。
『Elemental Alchemist Oracle』 by Nyasha Williams
陰陽五行による解説
「大袈裟な」というのは、他人からみた評価であって、常識からみればという前提があります。そのため、「大袈裟」を貫くことは、常識からはみ出た部分であり、「常識」=「土」と「個性」=「水」とのせめぎ合いの話であることがわかります。他人から批判されたりすることは、「土」に剋される「水」そのものです。
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