昔から、わたしが家族に「今日ね、こんなことがあって、みんなに注目されたよ!」っていうような話をするたびに、食卓の空気が凍るような、そんな感覚がありました。毎回「あれ、なんか、わたしへんなこと言ったかな?」って思うけれど、また別の日に同じことを繰り返して、なんだかモヤモヤしてしまうんです。
今から考えると、その根本には「嫉妬」のようなものがあって、それは家族だけじゃなくて、どこにいてもそういう感覚が付きまとっていたな、って思います。だから、友達からもなんとなくずっと浮いているような感じがしていたし、誰にも理解されないって思っていた。小学校高学年になるころには、図書館にひとりで籠るようになっていたのは、理解されない友達といるより、本を読むことのほうが楽しかったから。
わたしは、家族のなかでは“ゴミ箱”の役割を背負わされていたから、わたしが「目立つ」とか「注目される」ってことは、そのバランスを崩してしまうことになります。要は、みんなのストレスを背負って生きることが、わたしにも家族にも重要なことであり、そこから抜け出せないように「凍り付かせる」必要があったわけです。
そういった仕組みに気づいた今は、逆に開き直って「わたしがステキでなにが悪い!」って思うことにしています。わたしが、わたしの人生を、わたしのために生きてなにが悪い!ひとのストレスを請け負う才能は、才能として活かすけれど、それで自分が犠牲になるなら、話が違うと思うんです。わたしはわたしのために、わたしの人生を、ちゃんと輝かせて生きたいんです。ステキに生きていきたいんです。
『Wisdom of Hafiz』 by Daniel Ladinsky
陰陽五行による解説
家族のなかでの「役割」が、社会的な部分でも適応されてくることはよくあります。これは陰陽五行では「土」に象徴されるもので、あらゆる分野に応用される「枠」があると発想されます。だからこそ、生きにくさを感じたときに、この「枠」に気がついて、壊していく必要があるのです。
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