人間がなにかを考えるとき、意識されない部分で、必ず反対の思考も生まれています。そのため、誰かに同情することは、反対の「ざまあみろ」の思考も生まれているということになります。
わかりやすいのは、親が子供を心配するとき。コップにたっぷり入ったジュースを持つ子に「転ばないようにね」と声かけて心配するけれど、実際にコップをひっくり返してしまったら「ほらやった!」と自分の予想が当たった!という感覚になります。「ざまあみろ」というのは、意識されない感覚かもしれませんが、いずれにしても、「そうならないように」vs「そうなってしまえ」の葛藤が、頭のなかで起こっているのがわかります。
さらに、他人のことだともっとクールです。「あのひとかわいそう」と思えば思うほど、しかし、その相手が落ちていくのを、どこかでほくそ笑んでしまうんです。これを「ざまあみろ」=「シャーデンフロイデ」といいます。「他人の不幸は蜜の味」といいますが、こういうわけで、頭のなかに、反対の思考も共存しているから、そうなると考えてみるとおもしろいのです。
だから、ひとに同情したり、心配したり、かわいそうだと思うことは、まったくいらないわけです。それは、押し付けどころか、逆に足を引っ張る形になったり、邪魔することになったりします。わたしはわたしの道をゆく。まわりの、誰のことも気にかけないくらいが、実はちょうどいいのかもしれません。
『Mushroom Spirit Oracle』 by Nicola McIntosh
陰陽五行による解説
「他人のことをかわいそうと思う」こと自体が、自分の「価値観」「常識」で、ひとを判断することそのものです。これは陰陽五行では「土」によって「水」が剋されるという関係に象徴されます。「価値観」はひとそれぞれであり、誰かの「枠」によって判断できるものではないのです。
コメント