昔から「やさしいですね」といわれることが多いわたしは、「やさしいひと」であるために行動してしまうことがあります。自分では「こうしたい」というのがほかにあるのに、まわりからみて「やさしいひと」であるために、あえて自分では「やりたくない」ほうを選択したりするんです。自分では当たり前にやっていることでも、まわりから「やさしいひと」と評価されたとき、それが自分のアイデンティティと結びついて、だんだんエスカレートしていきます。
「やさしいひと」といったとき、電車の席がひとつしか空いてなければ、相手に席を譲ること。誰かと出かけているときには相手の状況に合わせて、歩くペースや休憩するかなどを考えること。など、その表現はさまざまです。だからこそ、「やさしいひと」と言われることは、相手の基準に合わせて「やさしさ」を演出することが求められ、どんどんエスカレートしていくのです。
最初は素の自分のままでも対応できるレベルの「やさしさ」であっても、だんだんレベルを上げていくので、いずれは苦しくなってきて「なんでこんなことをしなきゃならないんだ!」となんだか逆切れみたいになってしまいます。「やさしいひと」が足かせになって、素のままの自分ではいられなくなっていくのです。
「やさしいひと」と言われても、それを演じる必要はありません。なぜなら、もうすでにわたしは「やさしいひと」だから。それ以上を求められているわけじゃないんです。そのままの「やさしさ」が、もうすでにすばらしいんです。
『WATER TEMPLE ORACLE』 by Suzy Cherub
陰陽五行による解説
まわりからの評価として「やさしいひと」と言われたとき、まわりから「枠」にいれられて「カテゴライズ」されていることがわかります。「枠」は陰陽五行では「土」に象徴されます。つまり、「やさしいひと」と言葉にした時点で、それはあくまで「枠」であって、形骸化していくことが明らかなのです。「やさしさ」はあくまで直感的なものであり、言葉で表現しきれないものです。そこに形を求めること自体がナンセンスであるといえます。
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